「苦い根」、「悪の根」、「罪の根」

通常なら、

一昨日の記事の続きを、というところですが、

 

私のこのブログは、

 

「神様、主イエス・キリスト様、聖霊様と私」と共に。

…が、大前提です。

 

何を、どんなことを書こうか?

 

~ということも、

 

神様とご相談の上で、

 

決めさせていただきます。

 

 

本日は、

一昨日の続き以上に重要な悟りというか、

気付きをいただき、

そのことについて書くこととなりました。

 

 

一昨日の記事の続きについては、

また後日とさせていただきます。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

では、本日の内容に入っていきます。

 

数日前と一昨日、ふと思ったことからです。

 

 

 

RAPTさんのブログの記事、

特に有料記事の中には、

 

RAPTさんがこれまでに通っていた教会での、教会の乗っ取りや、

教理の破壊を行う工作員から罵られ、

迫害されるお話が、

度々出てきます。

 

 

また、

ネット上でも、

さんざん悪口を言われ、

嫌がらせを受けている、

…といったことも、

度々話されています。

 

 

長年こういった日々を送るということは、

それはもう、どんなに辛いことでしょう。

 

 

だから、

 

私たちRAPTさんの下に集う兄弟姉妹は、

 

「RAPTさんを様々な迫害や攻撃からお護り下さい」

 

と、神様にお祈りしています。

 

 

もちろん私も、 

先に記したのと文言は違いますが、

同様のことがらを、神様にお祈りしています。

 

 

いや本当に、

 

今この時代に、RAPTさんの存在は、

 

とても重要なのです。

 

 

…と、分かって実践しているのですが…

 

 

表面的にしか分かっていなかった!

 

 

…ということに、

 

一昨日はっきりと気付いたのです。

 

 

 

 先に記したとおり、

RAPTさんは、

 

これまで、自分のことをさんざん苦しめる人たちのなかで、相当な苦難に耐えて来た。

 

~と、話されています。

 

 

それを聞いて、

 

これまでは…

 

「ほんと大変だっただろうなぁ」

 

と思うだけだったのですが、

 

 

何故か、

数日前と一昨日は、

 

 

「そんなこと言うけど、別に教会だったら、そこに行かなければいいんだし。」

 

 

「ネット工作員からの脅迫とか、確かに大変だけど、毎日同じ空間で顔を付きあわせて一緒に仕事するとか、同じクラスだとか、ひとつ屋根の下にいるとかじゃないんだし、まだずっと一緒に過ごす訳じゃないんだから、いいんじゃないのか。」

 

 

…と、このような考えが、

頭に浮かんできました。

 

 

これ、

一見、世の中でよくありそうな考え方ですね。

 

 

だから、もし、

 

このような相談を他人から受けたら、

 

私みたいなこと、

 

相手に言っちゃうかもしれませんね。

 

 

あるいは~

 

「そんなことを体験してこられたんですか…。それはほんと、辛かったですね。」

 

と、

うわべだけ共感するとか。

 

 

私の場合、

 

これまで、後者の、

 

「うわべだけの共感」

 

…だったわけです。

 

 

…これだから私、

 

以前の仕事においては、

 

偽善者だったわけです。

 

 

で、

そのような偽善者の私が、

 

「『世間一般の人』並みの考えで行け。」

 

と、サタンにそそのかされると、

 

前者のようなことを思い浮かべるように、

なるんですね~。

 

 

 

これですよ、これ。

 

 

これこそが、罪ですよ。

 

 

え!?

こういったことの何が罪なのか!?

 

 

それは、

「神様が今この時代に、時代の中心者として私たちに遣わしてくださったかたを、見下している」

という罪です。

 

 

神様が私たちに与えてくださった中心者、使命者を最も尊い存在として、

何の疑いを持つこともなく受け入れて、

共に進んでいく。

 

 

これこそが、

神様の心情にかなうことなのに、

 

 

時代の中心者、使命者を、

言い方悪いですが、

どこか小馬鹿にしたような見方で見ているということは、

 

「神様を小馬鹿にしている」

 

ということなのです。

 

 

 

私たちすべての人間、

 

さらには、

 

この地球上のすべてのものが、

 

神様によって創られたものであり、

 

すべての者が尊ばれてしかるべきなのです。

 

 

そのうえで、

 

私たちには成すことのできない使命を、

 

日々全力で、

 

命懸けでおこなっていらっしゃるRAPTさんを、

 

「自分に比べたら大したことない」

 

などと思うこと自体、

 

とんでもない思い上がりで、

 

 

これも、

 

「高慢の罪」に値しますよね。

 

 

「高慢の罪」とは、

 

高慢な考えに支配されて、

 

自分こそがすごい!がんばっている!

 

と思い上がっている者、状態であること。

 

 

高慢な者、おごり高ぶる者に対して、

神様は敵としてみなされる。

 

~というものです。

 

 

聖書にも、

 

『神は、高慢な者を敵とし、

  謙遜な者には恵みをお与えになる。』

(ぺトロの手紙(一)5章5節)

 

~とあります。

 

 

 

前回の記事で私、

 

内海聡氏の書籍では、

 

読者がとかく小馬鹿にされる、

 

小馬鹿にされながらも、

 

ついてこれないヤツは、

 

グーミンだとかアホンジンだとか言われて、

 

何とも言えないモヤモヤ感、

 

不快な感じがずっと残る。

 

 

 

~というようなことを書いていながら、

 

人から小馬鹿にされるのは嫌と言いながら…

 

 

 

何のことはない。

 

 

自分だってどこかで…

 

RAPTさん、さらには、

RAPTさんを時代の中心者、使命者として遣わされている神様を、

小馬鹿にしているわけですからねぇ。

 

 

ほんと、

情けないことこの上なしです。

 

 

 

 …こんな感じで、

 

日々の生活のあちこちに、

 

苦い根、悪の根、罪の根は、

 

はびこっています。

 

 

聖書にも、

 

『神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。』

(ヘブライ人への手紙 12章15節)

 

~とあります。 

 

 

 

「自分に比べたら大したことないよ」

 

とか、

 

「もっと大変な人なんて、たくさんいるじゃないのか」

 

 

~と言われたら、

 

 

言われた人は、

 

「そうじゃなくって…。」

 

「程度の大きい小さいということを言ってるんじゃなくて…。」

 

「私が言いたいのは、『私は辛い(辛かった)』ということなんだけど…。」

 

…って思いますよね!?

 

 

本当に真心から、

 

RAPTさんのことを認めきれていない。

 

…ってことだったわけです。

 

 

真に認め、受け容れていたら、

 

どのようなことをお話しされても、

 

よこしまな考えなど、

 

浮かぶこともないはずです。

 

 

それがー

 

まだまだ自分に隙があるから、

 

このようなことが思い浮かぶのです。

 

甘い!のです。

 

 

 

こんなんじゃ私、

 

一人教会でしっかりと、

 

堅固に信仰を守り続けていくのは、

 

非常に難しくなってしまいます。

 

 

 

だからこそ、戒めとして…

 

 

神様は、

 

このエピソードをブログに記すことで、

 

同じくRAPTさんの下に集う兄弟姉妹の皆さんや、

 

今後兄弟姉妹となるであろう人々に、

 

 

「きちんと書き残して伝えなさい。」

 

 

…ということなのでしょう。

 

 

 

…一人って確かに弱いですね。

 

 

でも、

私にはいつも常に、

神様、主イエス・キリスト様、聖霊様がついていてくださっています!!

 

 

だから厳密には、

 

 

一人じゃありません!!

 

 

決して裏切ることのない、

 

いつも絶対に正しい、

 

この世の中で最も完全な存在である神様と、

 

同じ時間、空間を常に共にできている!

 

何ものにも代えがたい喜びです!!!

 

 

 

 

本日書き記している、この…

 

「自分に比べたら大したことないよ」

とか、

「もっと大変な人なんてたくさんいるじゃないのか」

といった考えですが、

 

 

現在の私が属する

 

「障害者(同士)の世界」

では、

 

かなり根強くはびこっています。

 

 

いわゆる健常者からすれば、

 

程度の差はあれ、

 

「障害者」は「障害者」

 

なのに、ね。

 

 

あ、でも…

 

先に記したタイプの

「見下す」パターンばかりではなく、

 

「あの人に比べたら、私はまだまだ(障害の程度が)軽いから、まだまだ私なんかには、偉そうなことは言えないよ」

 

とか、

 

「私は中途障害だけど、あの人は生まれつきの障害の人だから、私とかに比べたらもっと大変な思いをしているのだから、私なんかには何も言えない」

 

~といった感じのバージョンもあります。

 

 

(あくまでも身体障害の場合ですが)

 

 

より障害が重いのに、

 

様々なことにチャレンジしたり、

がんばっている人、

 

その障害を負ってからの期間がより長い人が、

 

「すごい人」

 

~というところですかね⁉

 

 

そんな…

 

「すごい人」を見聞きするたび、

 

いちいち心は穏やかでいられなくなり、

 

激しく動揺したりするのです。

 

 

 「自分は自分」「他人は他人」

 

って分かっているはずなのに、ね。

 

 

 

とはいえ、

 

根は同じなのです。

 

 

 

いわゆる、

 

「重篤な苦難」を経験してきている人ほど、

すごい!

 

~というところですね。

 

 

これじゃ、

不幸自慢大会(笑)

…になってしまいます。

 

 

本当にこの、

「不幸自慢」。

 

この世の中にあふれかえっていますよね。

 

 

 

重篤な苦難を乗り越えていない人は、

大した人じゃないのか!?

 

 

そうとも言えないでしょう。

 

 

他人から見えているところだけで判断しては、いけないでしょう。

 

 

 

なんだろう。

 

 

これって、

屈折した名誉欲?

でしょうか!?

 

 

いや、きっとそうでしょう。

 

 

 

「私にはもう、名誉欲なんてない」

 

と思っていましたが、

 

 

ストレートな名誉欲ではなかっただけで、

 

 

むしろ…

 

もっとやっかいな、

 

屈折している、

 

分かりにくい形の名誉欲?

 

…が、根強くはびこっていたのです。

 

 

 

変な形ではありますが、

 

これもまた、

 

プライドのようなものなのでしょう。

 

 

自分の奥深くにある、

 

「自分こそが苦難を乗り越えたものとして、認められたい」

 

「認めてほしい」

 

なのでしょう。

 

 

いやぁ、これって、

 

「かまってちゃん」

じゃない!?

 

 

…と思えてきて、

 

 

自分の奥深くのおぞましさにゾッとしました。

 

まさか自分に

 

「かまってちゃん」的な要素が潜んでいたなんて!

 

 

 

優れた者として、この世で認められることって、

 

今のこういった世の中では、

 

とても難しいことですよね。

 

 

 

優れた者として認められる努力をするより、

 

 

とりあえずは、

 

 

「かわいそうな人だけど、がんばっている」

 

 

~という方法で認められるほうが、

 

簡単というか、手っ取り早いですしね。

 

 

 

このような人って、

このように考えてしまうことって、

案外いる、ある、ことですね。

 

 

それでいて、

 

そのことを何ら、

 

悪いこと、間違ったことだとも、

 

思っていない。

 

 

先に書いた、

 

「高慢の罪」。

 

 

これもまた、

 

「自分こそがすごい!がんばっている!」

 

と認められたいという、

 

おごり高ぶった考えであり、

 

高慢なのだ。

 

…ということですね。

 

 

ほんと、

 

高慢の罪って、

 

根が深いうえに、

 

至るところに見受けられて…

 

 

しかも!

 

それが罪であるとは、なかなか気づけない!

 

 

…というものなのですね。

 

 

 

このブログ記事を書いている途中の明け方、

 

私が神様、主イエス・キリスト様、聖霊様に祈っていると、

 

今回のこのテーマについての悟りを、

 

さらに、与えてくださいました。

 

 

「とにかく、罪の根を断ち切りなさい。」

 

 

「見えない、奥深くにほんの少しでも残っている根が、非常に恐ろしい。」

 

 

そして聖書の、

 

『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、身を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』

(マルコによる福音書4書3~8節。同様の内容はマタイによる福音書3章3~8節、ルカによる福音書8章5~8節にもあり)

 

~を思い浮かばさせてくださいました。

 

 

一見、

先の苦い根の部分とはまた違う内容ですが、

これともつながってくるのだ、と。

 

 

例えば、

 

雑草が激しく生い茂ったら、

 

その雑草を根こそぎきれいに取り去るのは、

 

難しいですよね。

 

 

しかも、

 

そういった雑草の根って、

 

結構根深くて、

 

全部取りきるのが本当に難しい。

 

 

だから、

 

草取りしたはずなのに、

 

しばらく放っておくと

また、雑草が生い茂ってしまう。

 

 

 

雑草(今回書いていることでいえば、苦い根)も、

引用した『種』の根も、

 

そこに根があるかどうか?

 

ということ。

 

 

「根に着目することが大切」

 

であると同時に、

 

「根がしっかりとしていなかったら枯れる」

 

~ということだと。

 

 

苦い根、悪の根、罪の根は、

どんな荒れ地でも、岩の隙間でも生える。

 

 

こういった『雑草』こそが、

 

私たちの、

 

少しずつ豊かになりつつある、

 

「信仰」という土地の栄養分を根こそぎ奪い、

 

生い茂って、

 

その土地に植えられた『種』。

 

先に引用した聖書の部分の後に、

 

『種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。』(同、3章14節)

と、あります。

 

 

…を、

枯れるように、

成長できないように、

実を結ばないように、

してしまうということなのです。

 

 

これがどんなに恐ろしいことか。

 

 

せっかく、

 

神様のお導きで神様の御言葉に出逢い、

 

RAPTさんのブログに出逢い、

 

つたないながらも信仰を持つようになったのに、

 

周りからの悪なるものだけではなく、

 

自分の中にしっかりと根付いてしまっている世の中の常識や、

 

自らの間違った、

 

かたよった考えにやられてしまうということになるなら、

 

こんなにやりきれないものはない。

 

 

「自分たちの周りにはそのくらい、悪の根がはびこっている」

 

…ということに、気がつかなくてはならない、と。

 

 

「実はもう、多くの人が、心のどこかでは、自分の内にある、悪の根の存在に気付き始めている。」

 

「ただ、それら悪の根が、あまりにも自分の中に根ざしているので、それらがなくなったら、自分まで枯れてしまうと思ってしまう。」

 

~のだと。

 

 

 

そんなことありません!

 

 

それら悪の根を、

 

すべて取り除いたからといって、

 

私たちが枯れてしまったり、

 

倒れてしまうことはありません。

 

 

 

確かに、

 

あまりにも悪の根が茂り、

 

栄えてしまっている人が、

 

急に一気にその悪の根を取り除くと、

 

一時的にはグラッとして、

 

倒れてしまうこともあるでしょう。

 

 

 

だからといって、

 

中途半端に悪の根を取り除くのが、

 

一番苦しい。

 

 

雑草や、

 

雑草の根を取ってはまた増え~

 

…の繰り返しでは、

 

ずっと苦しいですよね。

 

 

いっそ、

 

悪の根だけで自分のことを支えていたほうがいいや!

 

~となってしまう人も、

 

世の中には、

 

いたり…しますね。

 

 

これまで慣れ親しんできたものを変えるとか、

 

手放すとか、

 

確かに、難しいです。

 

 

私もまだ、

 

信仰の入口にやっと立てたくらいの者です。

 

 

「いかにも悪なもの」

じゃない、

 

実はもっと地味な、

 

いわゆる、

 

「世間の常識」的になっている、

 

悪なる考え方こそが、

 

分かりにくく、恐ろしいのです。

 

 

「そもそも『常識』というが、それは誰にとっての常識なのか?あなたたち人間の常識なだけだろう。私たち(神様)の常識ではない。あなたたちが勝手に作り出しただけだろう。」

 

「『人間の考え方でやっているとうまくいかない』と言っただろう。」

 

「人間の考えでなく、私たち神や、私が送ったイエス・キリスト、そのほかの使命者の、これまで伝えてきた考えに従って生活しなさい。」

 

「これこそが、長い人生、長い時間を、真に安定して過ごせるようになるための知恵だ。」

 

「安全に過ごすための知恵も、求めたら、私が与える。」

 

との悟りを与えてくださいました。

 

 

私たちだけでは、

 

何が間違っているか、

 

なかなか気づけないものです。

 

 

間違った道を歩き、

 

度々、苦難に襲われるより、

 

正しい道を歩いていけるなら、

 

どんなにいいことでしょう。

 

 

「何が間違った道で、何が正しい道なのか、気づけるようになるためにも、もっと聖書を読みなさい。」

 

「聖書には、間違った道に気づくためのヒントが数多くある。」

 

~と、

改めて教えてくださいました。

 

 

これらのことは、

 

RAPTさんのブログの有料記事でもお話しされています。

 

その有料記事を見て聴いた時には、

 

今一つしっかりと理解できなかったり、

 

悟ることができなかったことを、

 

改めてまた、

 

教えていただいたものと思っています。

 

 

 

神様、主イエス・キリスト様、聖霊様と共に、

 

これからもまだまだ、

 

書き記したいことがありますので、

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

私のつたない説明よりも、

さらにクリアによく分かる!

 

RAPTさんのブログ

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 まずは一度読んでみてください!!